このシリーズは全7回。基軸通貨ドルが抱える構造的な問題と、日本人投資家の視点からトランプ外交を読み解く。
前回: 【第4回】トランプは間違った道具で正しい問題を解こうとしている
教科書はこう教える——インフレには利上げ、財政赤字は悪、中央銀行は政府から独立すべき。しかし歴史はまったく別のことを語っている。
戦後アメリカが本当にやったこと
1945年、第二次世界大戦を終えた米国の対GDP債務比率は113%だった。今のアメリカでさえ100%前後であることを考えると、途方もない水準だ。それが1974年には23%まで下がった——28年間で90ポイントの圧縮だ(出典:CEPR/NBER研究)。
通説では「高度成長で借金を返した」とされる。しかし近年の研究(Acalin & Ball 2023)はその通説を否定している。要因を分解すると、財政黒字の寄与は17ポイント、経済成長は32ポイント。最大の要因はインフレと金利抑圧の合わせ技で34ポイントだった。
FRBは1942年から1951年まで名目金利を強制的に低位に抑え込んだ。その間にインフレが進行し、実質金利はマイナスになった。借金の実質価値が静かに目減りしていったのだ。試算によれば、もし当時の市場金利をそのまま払い続けていたら、1974年の債務比率は23%ではなく74%にとどまっていた。政策の差で51ポイント——これがインフレと金利抑圧の効果だ(出典:IMF Reinhart研究)。
アメリカはすでに一度、利上げではなくインフレ容認と財政運営で巨大な債務を消した経験を持っている。
Dalioの「美しい債務整理」
投資家のレイ・ダリオは債務圧縮の方法を4つに整理している。緊縮、債務再編、富の移転(累進課税)、そして通貨供給だ。どれかひとつに偏ると「醜い」結果になる——緊縮だけなら不況、通貨供給だけならハイパーインフレ。
「美しい債務整理」とは、この4つを適切なバランスで組み合わせ、緩やかな成長を維持しながら債務比率を下げることだ。インフレを完全には抑えないが、制御しながら活用する——これが現実的な解法だとダリオは言う。
財政が直接届くとき、何が起きるか
コロナ禍のアメリカは偶然にも、財政直接給付の実験を行った。2020〜2021年にかけて3回の給付金、総額8,140億ドルが国民に配られた。第1弾(2020年4月、1人$1,200)では受給者の74%が「生活費に使った」と回答。Congressional Budget Officeの推計ではGDPを+0.6%押し上げた(出典:CBO、Brookings)。
お金が企業補助金や金融市場を経由せず、直接家計に届いたとき、その大部分は翌日には食費・家賃・光熱費として市場に放出される。乗数効果が働き、経済の血流が再開する。
基軸通貨国だけに許された選択肢
ここで重要な問いがある。なぜアメリカだけがこれをできるのか。
ドルは世界の基軸通貨だ。世界中の政府・企業・投資家がドル建て資産を必要とし、その需要は景気後退局面でも揺るがない。これを経済学では「法外な特権(Exorbitant Privilege)」と呼ぶ。この特権があるため、米国は他国より低コストで大規模な財政出動ができ、多少のインフレが進んでも資本逃避が起きにくい。
非基軸通貨国がこれをやれば通貨崩壊のリスクがある。しかしドルには世界の需要が下支えとして存在する。インフレが進んでも「ドルを持たなければ世界経済に参加できない」という構造が、過度な価値の暴落を防ぐ緩衝材になる。
ただしこれは無制限の免罪符ではない。財政規律への信認が崩れれば、特権も失われる。重要なのは「利上げで全員を苦しめる」のではなく、「財政で血流を止まっている場所に直接届ける」という手術の精度だ。
政治的タイミング——2026年秋の中間選挙
財政による国民への直接給付は、平時には政治的ハードルが高い。財政規律を重視する議員、インフレ再燃を懸念するFRB、財政赤字の拡大に反対する保守派——様々な抵抗勢力が存在する。
しかし2026年秋には米国の中間選挙が控えている。選挙前に有権者の財布を直接潤す政策は、最も即効性の高い票田となる。関税による痛みが広がる中で、「あなたの銀行口座に直接お金を届ける」というメッセージは、どんな演説より強力な政治的武器になりうる。歴史的に見ても、コロナ禍の給付金は党派を超えた支持を得た。財政直接給付には政治的動機が存在する——そして2026年秋はそのタイミングとして条件が揃いつつある。
ドルの信任は崩れない——ユーロの苦境という文脈
財政拡張がドルの信認を損なうのではないか、という懸念は根拠のある問いだ。しかし現在の地政学的文脈を見ると、その懸念は和らぐ。
ウクライナ戦争はヨーロッパの財政を直撃した。防衛費の急増、エネルギーコストの高騰、難民対応の負担——ユーロ圏主要国の財政は軒並み悪化し、ユーロの信任は試練にさらされている。基軸通貨の信任とは絶対値ではなく相対値だ。ドルが多少の財政拡張をしても、代替となる通貨——ユーロ・円・人民元——がそれ以上の課題を抱えていれば、ドルの地位は揺るがない。
「他に選択肢がない」という構造がドルを守っている限り、適度な財政拡張と国民への直接還付は、思われているほどリスクの高い賭けではない。
前回: 【第4回】トランプは間違った道具で正しい問題を解こうとしている 次回: 【第6回】数値の取り合いより、イノベーションが本当のリターンだ
免責事項 | 本記事は情報提供を目的としており、投資推奨・売買指示ではありません。