このシリーズは全7回。基軸通貨ドルが抱える構造的な問題と、日本人投資家の視点からトランプ外交を読み解く。

前回: 【第5回】財政で解く、という逆転の発想


ここまで5回にわたって数字を並べてきた。貿易赤字9,184億ドル、利払い8,810億ドル、関税収入195億ドル、1世帯あたりの負担1,500ドル——。

しかしここで一度立ち止まって問いたい。そもそも経済の「勝ち負け」を数値のフローで測ることは正しいのか。

数値の取り合いが見えなくさせるもの

現在の米国の経済外交は「数値の取り合い」に終始している。貿易赤字を減らせ、利払いを取り戻せ、外国に盗られた雇用を取り返せ——。すべての議論が、今あるパイをどう分けるかというゼロサムゲームの文法で語られている。

しかし経済の本当の果実は、パイの分け方ではなくパイそのものが大きくなることだ。人類が豊かになってきたのは、誰かから奪ったからではなく、存在しなかったものを作り出したからだ。蒸気機関、電気、コンピューター、インターネット——それぞれの技術革新が新しい産業を生み、新しい雇用を作り、かつて想像もできなかった生活水準を実現した。

ドルの信任の本当の源泉

ドルが世界の基軸通貨である理由は、金利が高いからではない。アメリカが世界の技術革新の震源地だからだ。

半導体の設計、クラウドインフラ、AI基盤モデル、宇宙ロケット、mRNAワクチン——世界が必要とする最先端技術の多くは、いまだアメリカ発だ。その技術を買うためにドルが必要であり、その技術を持つ企業に投資するためにドル建て資産が必要になる。

もし将来、ドルを持つ理由が「金利が高いから」から「アメリカの最新技術にアクセスするために不可欠だから」に完全に移行すれば、ドルの信任は利上げに依存しなくなる。インフレが多少進んでも、技術的優位性が続く限りドル需要は消えない。

これを「進化的価値によるドル覇権」と呼ぶことができる。

庶民が豊かでないと、イノベーションも止まる

ここに見落とされがちな接続がある。技術革新は真空の中では生まれない。豊かな中産階級が新技術の最初の市場になり、その消費が研究開発の資金を支え、次の革新へのサイクルを回す。

1950年代のアメリカが象徴するように、製造業の雇用が安定し、家計に余裕があった時代こそ、技術革新が加速した時代でもある。庶民を切り捨てることはイノベーションの土台を掘り崩すことでもある。

「数値の取り合い」に夢中になるあまり、次のパイを焼く準備を忘れている——それが今のアメリカの最大のリスクかもしれない。そして日本の80兆円は、アメリカがそのことに気づくことへの、静かな賭けでもある。

イノベーションの価値は「未来の価格」でつく

ここに見逃せない構造がある。イノベーションが生み出す価値は、その時点では誰にも測れない。AIが何をもたらすか、次世代の半導体が何を可能にするか——その価値は、実現した瞬間のドルで値がつく。

つまり、インフレでドルが多少希釈されたとしても、新しいイノベーションの価値はその時点のドルで評価される。旧来の米国債を持つ外国の債権者は実質価値を削られるが、次の技術革新にアクセスするためには再びドル建て資産を買わざるを得ない。古い債務をインフレで圧縮しながら、新しい価値でまた買わせる——これが基軸通貨国のイノベーションが持つ、本質的な非対称性だ。

今、価値を創造できる国はどこか

世界を見渡したとき、本質的な価値を生み出せる国は限られている。

ロシアは今回の戦争で今後数十年にわたって苦境に立たされるだろう。経済制裁、頭脳流出、インフラの疲弊——場合によっては国家そのものの分裂さえ現実的な問いになりつつある。資源大国としての影響力は残るかもしれないが、イノベーションの震源地として復活する道筋は見えない。

中国は内部の矛盾が加速している。不動産危機、人口減少、過剰な政治的管理——そして対外的に築いてきた影響力の多くは「金で買った信任」だ。一帯一路を通じて積み上げた同盟は、中国の財政余力が失われれば関係が反転しかねない。金の切れ目が縁の切れ目——その時、頼れる協力者がどれだけ残るか。

ユーロ圏はウクライナ戦争の財政負担と防衛費急増で余力を失い、日本は少子化と財政制約の中で懸命に前進している。

今がそのタイミングだ

主要な競合国が困難を抱え、代替通貨が信任の試練を受け、アメリカとの技術格差が広がる——この条件が同時に揃う瞬間は、歴史的に見ても稀だ。インフレによる財政の健全化、国民への直接還付、そして技術投資の加速。これを実行できるタイミングは、今しかないかもしれない。

ドルの価値が多少下がっても、世界がドルを必要とする構造は続く。それどころか競合が弱体化した今こそ、ドル希釈のコストが最も低い瞬間でもある。

この歴史的な窓を、アメリカは活かせるか——最終回で、その問いに向き合う。


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